うしぼく通信 編集チーム(株式会社KUUMA)による、編集後記。
うしぼく通信制作の裏側に生まれた、誌面には残らない小さな気づきや温度のあるあれこれ。神戸市内という消費地と近い場所で約4,000頭もの牛たちを育てる牧場だからこそ提案できる、牛とともにある暮らし。うしぼく通信の制作を重ねる度に見えてくる、今のうしぼくと牛たちとのあり方をつづります。
厄介物の正体とは
うしぼくでは日頃から、糞尿は堆肥に、ホルモンは栄養豊富な食材に、近隣の放置竹林は牛たちの敷材にと、一見厄介物と思われるものに新しい役割を見出す実践を重ねています。その延長で今号は、そもそも厄介物とは何なのか、社会という枠組みの中でどう向き合われているのか、社会学の先生へお話を聞きました。
向かったのは神戸学院大学の有瀬キャンパスの1号館。今年の4月にオープンしたばかりで、中央の吹き抜けから光が差し込み、友達と集まる場所にも一人で勉強する場所にもなる、仕切りのないひらけた空間が気持ち良い造りです。話を伺ったのは、神戸学院大学人文学部講師で社会学者の松村淳先生。教室の外に出て、山から街、いろんな大人たちが集まる遊び場に教え子を連れて行き、出会いそのものを学びにしてしまうフィールドワーカーです。

先生に聞いたのは社会学における厄介物の話です。牧場でいう厄介物といえば糞尿やホルモンなど具体的なものですが、社会全体で見れば、世間のスタンダード=マジョリティが作る秩序からはみ出たものに過ぎないといいます。
社会人類学者メアリー・ダグラスの「汚れとは秩序の外側にあるもの」という言葉のように、ただ居場所が違うだけなのでしょう。取材の中でうしぼくの洋三社長は、牧場の近くに広がるニュータウンは実は牧場ができたあとにできたものだと教えてくれました。順番でいえば牧場の方が先にそこにいた側で、あとから移り住んできた人たちにとって、糞尿が出てしまう牧場が厄介物に見えた時もあったのかもしれません。
摩擦がない便利さは、手応えを小さくする
自分の暮らしを振り返ってみると、厄介物と呼べるものがすぐには思い浮かびませんでした。地図アプリを開けば迷わず目的地に着き、欲しいものはワンクリックで注文すれば翌日には届きます。セルフレジのおかげで、店員と一言も交わさずに買い物が終わることも増えています。
日常で摩擦を感じる場面は、実は驚くほど少ないと気づきました。一見快適で暮らしやすい反面、それは案外危うい状態なのでは、とも。摩擦が起きると、そこに何らかの感情が生まれます。気になる、腹が立つ、なにか引っかかる。その感情が「なぜ」という問いを連れてきます。状況を把握しようとすることで、当たり前だったものの輪郭が見えてくるのかもしれません。

存在していた摩擦が起きないようにいつの間にか整えられ、目を向けなくていい環境に慣れてしまう。それが本当はもったいないことなのだと思います。「定義づけることは弱くさせること」と、制作段階で編集チームで出た言葉がありました。過度に摩擦のない快適さは、見立てる力や、厄介物と向き合いそこに新しい意味を見出す力を鈍らせていきます。私たちを賢くするというより、むしろ弱く、脆くしている。そんな危機感を感じました。
少しの手間がおいしさの隠し味になる
見立てる力を磨く手間のひとつとして、うしぼくの精肉店で肉を買うことを挙げます。近所のスーパーで手軽に肉を買うのも一つの選択ですが、精肉店に足を運び、少し時間をかけて肉切り職人と会話をしてみると、また違う手触りが得られます。
うしぼく直営精肉店の御影店で働く肉切り職人の柿本さんに生ホルモンのことを聞きに行ったときも、30分の予定が1時間半になりました。部位や食感、食べてほしい食べ方の話は尽きませんでした。肥育環境や牛飼いの話まで聞いて購入していると、ただの肉の塊として見ることが少し難しくなる気がしました。うしぼく精肉店では、牧場と直営店が対話を重ね、見えるはずのなかった部分をお客様にお届けしているのかもしれません。

摩擦がないこと自体が悪いわけではありません。ただ、整えられすぎた秩序に慣れて、そこからはみ出るものを何でも厄介物として切り離してしまうのは、少しもったいない気がします。
「ちょっと違うな」という違和感こそ、見立てる力を働かせるきっかけです。そんな引っかかりの先に、実は新しい価値や、自分が本当はこだわりたかった何かが隠れているのかもしれません。今号の取材は、その気づきをうしぼくと一緒に見つめ直す時間となりました。
筆:北田愛(株式会社KUUMA)